その時のクロエの言葉は、杏奈に猜疑心を呼び起こさせる類のものではなかった。
かつて
「コッキョウナキイシダン」とかいうプロジェクトで、ナースとして活動をしていた経験もあるらしいクロエ。
まるでカートゥーン・ネットワークのアニメに登場するキャラクターみたいなクロエは表情豊かだ。
なんだか見ているだけで飽きない。
ここのラボを見せてくれるらしい。
社会科見学みたいな感じだろうか。
生き生きとラボを案内するクロエの様子が目に浮かび、杏奈は幼い日の遠足の前日の、心許ない気分を思い出していた。
また、あの質問されるのかな?
ここの博士であるDr.トクシークには一度だけ食事のリクエストをした事がある。
母が倒れる前の日に、母との久々の「デート」で食べたでっかい豚まん。
中華街で、2人で半分こした。
半信半疑で、まさかそんなものが出てくるワケないよね?なんて思っていたら本当に出て来て驚いた。
あの日は母と豚まんを半分こして、キラキラしたサテンのバレエシューズを買ってもらったんだっけ。
嬉しくて、バレエシューズを履いてトレーラーハウスのキッチンでくるくる回っていたら
母が出演していたライブハウスの人が顔色を変えてトレーラーの窓をガンガンと力一杯叩いた。
「杏奈ちゃん、お母さんが倒れた。
今から急いで病院に行こう」
それから記憶が、ブチっと音を立てて途切れた。
ゲノムの記憶?
記憶を抜き取れるなら抜きとってみろ、と杏奈は小さくその拳を握りしめる。
ラボに向かう途中、黒衣に身を包んだ一人の長身の女が立っていた。
?「待っていたよクロエ君…そして初めまして、瀬戸杏奈さん。」
クロエ「あれ先輩、もうラボの中にいるはずじゃ?」
杏奈「クロエ、この人は…」
クロエ「この人は、ラボ内では転送システムの研究者なんだけど…」
何故かしどろもどろになるクロエが気になりつつも、杏奈は黒衣の女を見つめた。
黒髪で長身・アスリート体形のクールな麗人を思わせる風貌は、クロエとはいい意味で対照的であった。
女は2人の近くに向かい…土下座した。
?「IDカードを紛失した上に、連絡用通信機は自室に置き忘れ、そして道にも迷った…
嗚呼また部下に馬鹿にされる…
クロエ君・瀬戸杏奈さん、私を助けてくれ…」
クロエは頭を抱え、杏奈は気が抜ける形で呆然とするのであった。
杏奈は彼女の纏う黒衣のドレープと美しい褐色の肌、そして何処か人工的な雰囲気の漂う佇まいを眺めながら記憶を手繰り寄せる。
彼女の事は、いつか何処かで見た事があるような気がする。
オリンピックのフィールドだったか?
或いはウィンブルドンだったか。
いや、もしかしたらパリコレのランウェイだったかもわからない。
いつからか、世界中の人種のDNAが全てシャッフルされて混沌とした世界が形成された。
目の前にいる、何処か人間離れした彼女との間に張られた見えないシールドの向こうで繰り広げられるクロエとの遣り取りは、
一種のファンタスティックなエンターテナー性を感じさせた。
クロエが口を開く。
仕方がないわ。
もう一度、「人間」たちのデータを初期化して整理するしか無いわね。
目の前にいる「彼女」は、私と同じ
「人間」なのだろうか?
それとも…?
博士「まだ来ないのかクロエ達は…それにジュディスも」
ラボでは博士こと、Drトクシークが杏奈・クロエの到着を待っていた。
?「Dr、現在の日本の画像をそちらに今から送りますが、よろしいでしょうか?」
博士「ようやくか、ありがとう…Leica」
マザーコンピューター、通称“Leica”に語り掛ける博士。
ラボ内には他にも研究員はいるが、博士はある実験の為に特別室にいた。
画面には、ダークネスの屋外での行動が映し出されていた。
博士「やはり瀬戸杏奈とは違い、ダークネスは音には…」
杏奈がこの施設に来るきっかけとなった、大きな音。
それは本来ダークネスの生態を調べる為の実験の一つに過ぎなかった。
Leica「でもあの実験は大いなる収穫になりました…瀬戸杏奈の発見として。新たな情報が入り次第、またお知らせします。」
モニターは消えたが、博士の脳内にある映像が浮かび博士は表情を曇らせる。
それは中華街をバックに微笑む中年女性・若き料理人・そして黒髪で優しく微笑む…自分とうり二つの料理人の映像であった。
博士「またか…」
クロエとジュディスのハイテンポな会話の掛け合いを、右から左に流しながら杏奈はふと、
また早くテディに会いたいな…なんて思う。
テディが居ないと手持ち無沙汰だ。
クロエは、私の荷物は慎重に保管しているなんて言っていた。
だけど、荷物の中には盗んだ食材がメタモルフォーゼして毒ガスを放っている筈だ。
無事なのは缶詰のグリーンピースぐらいだろう。
サバイバルナイフは、ママとの思い出が詰まったサテンのバレエシューズに包んで隠し持っていた。
あのシューズは果たして無事なのだろうか。
もうこんな世界では、あんな無防備な靴は履けないけれど。
フフッ、と小さく冷めた笑いが浮かぶ。
何故かシュールだ。
何もかもが。
ジュディスの骨張った脚の甲を見ながら、彼女の履いている不思議な靴を眺める。
ヒールの部分には赤い液体が揺れており、ダイナミックな彼女の動作に併せて波打つ。
これは血液?
まさかね。
ラボは地底にあるらしい。
しかし、一体何処から移動をするのか?
ジュディスとの談笑に一息をついたクロエが、聳え立つガジュマルの幹の前で足を止めた。
「ここよ」(編集済)
最初に
のアンカーはの間違いです。
誠に申し訳ありません。
クロエは、自らが持つIDカードを幹の下に置いた。
その瞬間、幹の左横に記号・数式が複雑になぞらえたパネルとモニターが現れた。
モニター画面には、【3分以内にパネルの暗号を、順番通りに解いてください。時間切れ&一度でも失敗すると初めからやり直しです】というメッセージが出てきた。
杏奈「IDカードって、これを呼び出すものだったの?
ってジュディスさんが何でモニター前に…」
クロエ「凄い不安でしょ~でも先輩って、仕事はデキる人だから…」
ジュディスは最初の印象を思い出させる表情に変わり、目にもとまらぬ速さでパネルを操作していく。
そして手を止めた瞬間、モニターは【暗号解除・記録更新!】というメッセージに変わり、幹の右横にはエレベーターらしき物が出現した。
ジュディス「まあ私が初めからラボにいれば、ラボ内からエレベーターを召喚できたんだけどね…」
そういって体育座りで落ち込むジュディスと彼女の頭をなでて慰めるクロエ
杏奈はこの状況を見て、「何だろう…ジュディスさんって?」
杏奈はその疑問はあえて心の中に留めておき、2人と共にエレベーターに乗った。
【登場人物まとめ ②】
[ゲノム研究所]
クロエ・ノヴァク
参照
ゲノム研究所助手にして看護師、検査技師、研究者。
かつては感染症に苦しむ最果ての地の人々を救う活動をしており世界を飛び回る。
パワフルにしてハイテンション、喜怒哀楽が激しくアグレッシブな人物。
また世話好きな一面もあり、何かと杏奈の身を気遣う。
特殊なウイルス抗体を持つ杏奈のDNAに、ダークネス達を救うヒントがあると信じあらゆる手立てで杏奈へのアプローチを試みる。
ジュディス・マクファーレン
ゲノム研究所の諜報部隊職員。
おもに外交全般を担当しており、あらゆるジャンルへのアプローチに挑む。
185.5cmの長身にして、何処かアンドロイドを彷彿とさせる妖艶かつ人工的なヴィジュアルを持ち、かつてはその風貌を生かしパリコレモデルとして活躍していたという噂もある。
そんな目立つ佇まいとオーラを持ちながらも、そのキャラクターは子供のように無邪気で無防備。
またおっちょこちょいな一面もあり、よく物を無くして狼狽える事も。
しかしメディアを操る能力には定評があり、瞬間的に目撃した事象を瞬時にデータ化し、ラボにインプットするという特殊な能力を持っている。
とにかくおしゃべり。マシンガントークが絶えない。
しかし億を超えるラボのデータの8割以上は彼女の脳内にインプットされているとされ、
クロエ曰く「歩くゲノム研究所」と言う一面も併せ持つ。
※なんとなくキャラのイメージと語呂の響きでネーミングしてしまいすみません。
また追って加筆・訂正宜しくお願いします。
トク主の方・リレー作家の皆様、メッセージ並びに編集ありがとうございます。
このトークが建てられてから、自分自身の昔あった創作意欲が再び沸いてきています。
私自身はキャラクター投稿が多いですが、皆さんの登場人物のまとめを見ると、更に魅力的になっているなと感服しています。
そしてダークネス・シティの存在と子供達…気になる謎が増えています。
登場人物?を追記
Leica
ゲノム研究所の特別室にある、マザーコンピューター。
開発者は不明で、操作できるのはDrトクシーク、クロエ、ジュディスと一部の人間に限られている。
ゲノム研究所・ダークネスのメディカルチェック、ダークネスの観察、操作できる人間の持つ情報の記憶の登録等を担当する。
人間しか持たない物(感覚・感情・記憶)に強い興味を持ち、自我は今はない…
遅くなりましたが、皆様改めてよろしくお願いします。(編集済)
【登場人物まとめ ③】
ダークネス
20XX年、発生要因不明の未知のウイルスに侵され、地上で生活が出来なくなってしまったウイルス感染者達の総称。
彼等は太陽の光を浴びるとDNAが破壊され免疫システムが崩壊してしまうので、地下に生活の拠点を移し陽の光を浴びる事のない生活を余儀なくされていた。
また、ウイルスは人から人へ、親から子へと感染していく度にその構造を多様に変化させてしまう為、今では億とも言われる多様な型のウイルスが発生。
ダークネスの親から生まれた子供達もまた、生まれながらにして陽の光を浴びる事が出来ず、地底での暮らしを強いられていた。
しかし、彼等の中にも突然変異による特殊な免疫システムからの抗体を持つ者が存在するとも言われているが
その免疫抗体を持つ者は同じように免疫を持つ者との接触でしか抗体の威力を自覚出来ないとされ、
免疫抗体を持っている事に自身で気づかないまま地底での暮らしを強いられているダークネスも存在するとされている。
そうした「潜在的な免疫抗体」を持つダークネスの発見、
また彼等の特殊な抗体からダークネス達が救われる可能性も残されていると言われている。
杏奈「綺麗…」
それまで殺風景だったエレベーター内は、一気に様変わりした。
その空間は、杏奈が今までに見たことのない壮大な光景であった。
クロエ「えーと説明になるけどこれまで杏奈と私がいた移住スペースは、研究所職員の自室・屋外活動前後の検査と調査のまとめ以外、人が出入りする場所ではないのよね。」
ジュディス「そうだな、クロエ君。
時間もまだある所だし、瀬戸さんにここのラボの説明を始めてもいいかな。
ラボにはエレベーターを軸とした転送システムなどの各研究施設、農園・養殖場・牧場・酪農、他にも食堂・仮眠室・天然温泉の大浴場も完備されているって…どうかしたのか瀬戸さん?」
クロエ「感激してるのよ、この風景に…」
ジュディスやクロエが説明をしている中、杏奈は宇宙の風景をゆっくり眺めていた。
杏奈「あっごめんね、つい夢中になって。
あと呼び捨てでいいよ…私もジュディスって呼ぶから。」
その言葉に嬉しさも相まって喜ぶジュディス、落ち着かせようとするクロエ、その光景に微笑む杏奈。
それは心境の変化かは分からない、でも今の杏奈は年相応の少女そのものであった。(編集済)
綺麗だぁ〜🌏✨
【2】
時空を超え、3人を乗せたエレベーターは光の輪の中にゆっくりと取り込まれながら上昇を続けていった。
脚元を旋回し続ける光の環がビームを放ち加速していく。
杏奈は初めて眼にする、その広大な宇宙空間を固唾を呑んで見つめ続けた。
その光景はどこまでも深く、そしてどこまでも果てが無く、そして永遠を感じさせるかのようにどこまでも静かだ。
この空間をともに見守っていたジュディスが杏奈の前に立ち、すっと右手を挙げた。
クロエ「もうじきラボに着くわ」
ジュディスの纏う黒衣の裾が光の環を受けてゆっくりとはためき、クロエは杏奈を庇うように寄り添う。
ジュディスの靴のヒールの部分で揺れていた真っ赤な液体が青く輝き、彼女がゆっくりと再び右手を降ろした瞬間
3人を乗せたエレベーターが静かに天空のラボに到着した。
エレベーターの扉が静かに開いた。
杏奈はその眩しい光に目を細め、後退りをする。
ジュディス「大丈夫か?着いたぞ」
光のビームの旋回が静かに収まり、光の向こうにあるラボが3人を出迎える。
Dr.トクシーク「待ってたよ。ようやく来たか」
(編集済)
それまで杏奈が見てきた風景。
人は皆防護服とガスマスクを身につけており、その接触は必要最低限だった。
ママが死んでからの世界の急激な変化は、杏奈に戸惑う隙すら与えなかった。
一晩にして街が崩壊し、人の気配が無くなった。
リアルタイムで体験した者にしかきっと分からないだろう。
100年後にもしまだ人類が存在しているのだとしたら、そんな話をしたって恐らく誰も信じてくれない筈だ。
あの日から杏奈自身の身体も、生体活動を全てやめてしまったかのように、暑さや寒さも一切感じなくなった。
杏奈は自身があの日を境に「人間」である事をやめたんだと記憶していた。
だけど、このラボはどうだろう?
まず、ガスマスクを着けている者がいない。
防護服を身に付けている者も誰もいない。
身軽な衣服に身を包み、マスクもせずに隣人と談笑したりしている。
彼等は豊かに表情と言葉で隣人にアプローチし、コミュニケーションを取っていた。
他人の表情を、自身の脳内からインプットする事をやめてからどのくらい経ったのだろう?
杏奈は自身の脳と感情と心が、軽いパニックを起こしかけている事を自覚した。
いつもなら、あの薬を間違いなく瞬時に口に放り込み、噛み砕いていただろう。
彼等はまだ幼く見える杏奈に一瞬、物珍しげな視線を投げたが
すぐに自分のポジションに戻り仕事を続けた。
彼らは、一体何者なのだろうか?
ジュディス「Dr.トクシーク、2人が遅くなったのは私の責任です。
本当に申し訳ありません。」
Dr.「ジュディス、放送局ラボの研究員から預かって置いたのは、これか?」
そう言ってジュディスのIDカードを渡す、Dr.トクシーク。
ジュディス「はい間違いありません、ありがとうございます。
私はこれから謝罪の為に、放送局へと向かいたいと思います。
ではDr.トクシーク・クロエ君・そして杏奈、すまないがまた会おう。」
そう言って、研究員の隙間を通る形で小走りするジュディス。
クロエ「急がなくても間に合うのに…転送システムのラボとの兼任は大変よね。」
そう言いながら、クロエは杏奈を落ち着かせようとしている。
杏奈が驚くのも無理もない。
自分も初めてここを見た時は、混乱したことを覚えている。
目の前に大勢の研究員がいる事、そしてこのラボは研究所内の無数のラボの一つにしかすぎないのだから。
クロエ「杏奈、疲れているわよね…ここからは移動用の全自動椅子に乗って移動しましょう。
それでよろしいでしょうか博士?」
Dr.「嗚呼…あと杏奈、荷物の確認が終わった報告が来た。
君を荷物の所に案内しよう。」
杏奈「荷物って…テディに会えるの?」
杏奈はテディに再会できる思いで興奮から走ろうとしたが、クロエとDr.トクシークは優しく支える形で、移動用の全自動椅子に座らせた。(編集済)
久々に世界が歪み、廻り出した。
暫く身体から遠ざかっていた、頭と身体がバラバラになって行くようなあの感覚。
徐々に呼吸が乱れてゆく杏奈の背中を静かにさすりながら、クロエが呟いた。
「杏奈がここへ来て病棟から外の世界に触れたのは、このラボが初めてだったわね。
ショックを受けるのも仕方がないわ。
でも大丈夫よ、私達が付いている」
いつもならこんな時は肌身離さず身に付けていたテディを握りしめていたけど、杏奈はいつしか寄り添うクロエの手を力を込めて握っていた。
横ではDr.が静かに杏奈の様子を見守っている。
移動用の全自動式の椅子は静かに光のオーブを携えながら空中に佇み、杏奈達が落ち着くのを待っていた。
杏奈「クロエもう大丈夫だから、今は早くテディに会いたい…」
クロエ「分かったわ、でも休憩を取りながらゆっくり行きましょう。」
ラボの方に向かって杏奈達は移動を始めた。
全自動式の椅子は暖かくベッドのような形状で心地よく、またラボが変わったのか、景色は幻想的な雰囲気を醸し出し、杏奈は少し眠くなりそうだった。
杏奈は寝ぼけたせいもあったのか、ある疑問をクロエにした。
杏奈「クロエ…前から気になっていたんだけど…クロエはどうして博士と呼ぶの?」
その質問に対して、クロエは博士の方を少し照れながら見た後、答えた。
クロエ「うーん、私が“コッキョウナキイシダン”で活動した時に、医師の方々をみんなをDr.+苗字で呼んでいたけど、その時何か堅苦しさがあって。
だからここでは違う名称で呼びたい想いから、それで博士と呼ぶのよね。」
杏奈は意外そうな表情を浮かべていた。
杏奈「じゃあ、博士は“コッキョウナキイシダン”ではなく、どこでお医者さんを…えっ?」
杏奈は目の前の光景から驚きの余り、言葉は止まり、表情は涙ぐんでいた。
何故ならラボとは違う場所が目に入り、その中には杏奈の鞄・サテンのバレエシューズ・そして…
テディ「杏奈ちゃん…会いたかったよ…」
テディがいた。(編集済)
そこは、今しがたまで目の当たりにしていたラボの光景とは打って変わり、とても静かな空間だった。
どこまでも高い天井からは光が差し込んでいる。
ここは天空の筈なのに、まるで久しぶりに太陽の光を浴びたような不思議な感覚だ。
丸いテーブルを座り心地の良さげなソファーが囲み、天井からの光がスポットライトのように
テーブルの中央に置かれた杏奈の荷物を照らし出す。
ノースフェイスの無骨な鞄。
その鞄のハンドル部分に結びつけられた紐の先には、懐かしいテディの姿があった。
テディ久しぶり。
会いたかったよ。
杏奈のこと、覚えてる?
テディは取れそうな片目で俯きながらも、歩み寄っていく杏奈と視線をしっかり合わせた。
杏奈の様子を見守っていたクロエが静かに口を開く。
「杏奈、まずは貴女の大切なものがきちんと揃っているか確認してみて」
杏奈は拙い指でテディを撫でながら、恐る恐る鞄のジッパーを開ける。
この鞄を肌身離さず抱えてサバイバルして来た、数週間前の自分。
まるで遠い昔の事みたいだ。
ジッパーを開ける時に覚悟はしていたが、不思議なことにメタモルフォーゼしている筈の沢山の盗んだ食材の気配は全て消えていた。
衛生上の理由から、何度もラボのフィルター・システムを通したらしくカオスと化している筈の鞄の底は無臭で、新品とまでは行かないまでも綺麗にされていた。
テディとサテンのバレエシューズ、そしてママの形見とママの写真。
大切なものはそれだけだ。
ママの形見の指輪と珊瑚のロザリオ、そしてステージに立ち歌うママの写真は腐敗の魔の手から逃れたようで無事だった。
杏奈は幼い日の自分と写るママとの写真より、
ステージに立つママの写真を見る方が好きだった。
この写真を持ち歩いている理由は、ママの右の鎖骨の下に彫られた赤い鳥と青い鳥のタトゥーが綺麗に写っていたから。
ママの人生を映し、それを現していたタトゥー。
ママは、いつまでもずっと自由な心でいたくてこれを彫ったの、って言っていたっけ。
そんな想いと暫し戯れながら鞄を抱える杏奈に語りかけるように、Dr.が口を開いた。
「大切なものは無事だったようだね。
だけど、君が所持していたあのサバイバルナイフと薬からは、少し危険な化学反応が確認されている。
君を疑う訳ではないのだが、これらを今君の手元に還すことは非常に危険であると判断した。
これらについては、幾つか改めて聞きたい事がある」
普段は温厚なDr.トクシークが、いつもは見せない少し厳しい表情と目線を杏奈に向けた。
杏奈は博士の初めて見せる表情に、少し戸惑いつつも、杏奈も博士の方に視線を向けた。
クロエ「博士、私も杏奈の傍にいた方がいてもいいでしょうか?」
杏奈を心配そうに見つめるクロエ、杏奈自身もクロエに近くにいて欲しい気持ちがあった。
博士も頷き、クロエが杏奈の近くに向かおうとした時、別の入り口の扉が開いた。
?「クロエ、あなたも参加するの?
ならば私達も参加した方がいいわよね…この会談を平等にする為に。」
?「副所長、それって神センスの塊じゃないっすかー。
それにしてもこんな早く、杏奈ちゃんに会えるとはマジでウケるー!予想より若い、草通り越してマジで茎w」
昔見たどこかのセレブタレントの様な博士と同年代と思われる、副所長と呼ばれている女性。
そして端正な顔立ちの美少年だが…ド派手な服装・中身はかなりの嫌悪感を覗かせるこの男。
戸惑う杏奈と2人組に対し、厳しい表情を見せるクロエと鬼の様な形相を浮かべる博士。
?「せっかく火星からサプライズで来たのに、2人ともマジでアリエンティーな態度というかって、所長コワ!」
副所長は笑いながら喋る男を無視し、杏奈の方に向かい軽く舌打ちをした後に、テディを奪った。
副所長「被検体・瀬戸杏奈、このボロい熊があんたのイマジナリーフレンド?」
杏奈はすぐに理解したこいつらは敵だ…(編集済)
その副所長と呼ばれる女は、ギラギラした宝石で飾られ、どぎついネイルに彩られた指をヒラヒラさせながらテディを奪い、物珍しげに眺めて弄んだ。
「貴女には関係ないわ。返せ」
杏奈は咄嗟に女からテディを奪い返した。
「あら、あーた、まだお子ちゃまの癖に負けん気の強さだけは一人前なのね。
まぁいいわ。
あたくし、あーたの遊びの相手してやる暇なんてないの。ゴメンあそばせ」
杏奈は、この得体の知れない女を黙って睨み付けた。
女は意に介さず、杏奈を一瞥し興味なさそうに踵を返した。
その様子を見ていた軽薄そうな男がすかさずチャチャを入れる。
「おっ。杏奈ちゃんてば、怒ったお顔もきゃっわいーい!ボク、キミの事好きになっちゃいそ〜♡」
こいつらは一体何なんだ?
全く話が通じず、嫌悪感しかなかった。
腕組みをしたまま2人を静観していた博士が口を開いた。
「ここへ来るなら、一言くらい言ってから来たらどうなんだ。
物見遊山するにもルールがあるだろう?」
杏奈は、この全く意思疎通も出来ず言葉も通じない、おかしなテンションの2人と接してドッと疲れてしまった。
初期の火星に移住したメンツの末裔とされる、道化の仮面を付けたenemy。
火星とやらにはDNAの生態系を破壊する何かがあるんだろうか?
…いや、彼等はどうせ最初からまともなんかじゃなかったんだろう。
あたしの人生に関係ない人間の存在なんて、すぐさま抹消してやる。
そんな奴らの為にエネルギーを使うなんて馬鹿らしいったらない。
いや、その前に彼等は果たして「人間」なのか?
まぁいいや。
考えるだけ無駄だ。
そう言えば、クロエが口にした
「L e i c a」と言う名前。
最初、この研究所に搬送された時に朦朧とした意識の中で、一度だけその名を聞いた記憶がある。
“L e i c a ”は彼女の記憶をインプットし、
彼女の「生きる」と言う意思を確認した…と。
“L e i c a”は、私の何を知っている?
「さぁ杏奈、気を取り直して腹拵えよ。
また博士に好きなメニューをリクエストしてね。
貴女がやっと空腹を感じて、こうして健康的な食欲を少しずつ取り戻して来ているのが私は嬉しいわ。
白血球も通常の値に戻りつつある。
初めは
“一体どうやってこの娘は生き延びて来たんだろう…”
って、不安で堪らなかったから」
立石に水のように喋るクロエの言葉を聞きながら、食べれる、眠れるって言うのは当たり前じゃなかったんだ…と杏奈は思う。
杏奈は自分の手を握り、心なしか涙ぐむクロエの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「たくさん心配かけてゴメン。
クロエ、ありがとう」
Dr.「チキンカレー(甘口)か。
サラダ・スープ・副菜・軽めのデザートの内容は、何が良いか確認しておこう。」
専用の厨房にいるDr .は、杏奈のリクエスト・巨大な冷蔵庫を見ながら、今日のメニューを考えていた。
杏奈への返信を行おうとした際、通信機の音が鳴る。
Dr.「enemy か…」
通信機の画面上には副支部長が映し出されていた。
副支部長「悪いわね、ちょっといくつか伝えたいことがあってね…
ちなみに今は私一人、私の秘書…いや“助清”の方は自分が所属するラボにいるから」
“助清”とは、あの軽薄な男の別人格の名称だ。
Dr.「時間を無駄にしたくないから、通信を切ってもいいか?」
だが画面上の副支部長の表情から、いつもの彼女との違いに気づく。
副支部長「まずDr.あなたが信じなかった情報は、火星での調査により肯定されたわ。
杏奈の父親は過去に犯罪歴がある…だから彼女は免疫抗体を持っていても火星移住ができなかった…
そしてもう一つ秘書が行った“Leica”への一時的なハッキングによって、ダークネス・シティに杏奈とは別タイプの免疫抗体を持つ、ダークネスの存在が正式に2名判明されたわ。
実験台として捕獲しておく?」(編集済)
今日は珍しく、お腹を空かせた杏奈が弾んだ声で
「甘口のチキンカレー食べたい。
あたし、実は博士のつくるご飯の中では、カレーがNo. 1だったりするんだよね」
なんて話していたのを聞き、久々に腕を振おうと思っていたのに興醒めだ。
通信機の画面の向こうでは副支部長・Mrs.マリポサが何時に無く様子を伺うかのような表情を見せていた。
Mrs.マリポサはDr.トクシークがこの一大発見の報告を聞き、二の句を継ぐのを待っているかのように見えた。
Dr.トクシークはカレーにセロリを入れるかどうか考えあぐねていた。
そう言えば、あの子はセロリが嫌いって言っていたな。
今回はこれも原型を留めずに投入してみるか。
これで人参も玉葱も上手く食べられるようになったから大丈夫だろう。
Mrs.マリポサは続ける。
「免疫抗体のサンプルは、一体でも多く捕獲しておいた方がいいわ。
博士、貴方の言う、彼女…瀬戸杏奈のゲノムをより深く解析していく為にも、比較として他検体は多く入手しておいた方が、後々の解析に役に立つとわたくしは思うの」
Dr.は一呼吸置いて答える。
「Mrs.。君は我々のミッションをよく知っている筈だろう。
我々が目指すのはダークネス達の救済であり、ダークネスシティ、つまり世界の復興だ。
君の目的の目指す方向も分からなくはないが、ここはひとつ慎重にことを進めたい。
そして、ダークネス達はラットでもモルモットでもない。分かるかね?」
Mrs.マリポサは呆れ顔のDr.トクシークを通信機のモニターから見下ろし、拍子抜けしたかのような落胆を見せた。
助清「ぼろクマを実験台にした手芸教室、冷戦状態の中年同士の揉め事ですか…」
転送システムラボの特別室にいる助清は、タブレットで杏奈&クロエ、Dr.トクシーク及びMrs.マリポサを観察していた。
助清「まあ、これも副支部長の指示ということで…うん、あの声は?
ジュディス「あの後輩…私のことを「僕は、あなたが放っておけないんです」と言っていたな。
あいつは何故…顔を真っ赤にして怒るんだろう?」
ラボに向かうジュディスに気づいた、“助清”は不敵な笑みを浮かべてタブレットを操作し、何故かタブレットを投げ捨てて、指を鳴らして主人格へと交代した。
ジュディス「うん、君はムツキ君…確か火星に転勤になったんじゃ?」
ムツキとは“助清”の主人格の名前である。
ムツキ「転勤じゃないですよー先輩、それよりここで会ったのも何か運命感じますねー♡
嗚呼…でもどうしようかな…マジで」
“助清”の奴逃げたか、あとタブレットはどこに…いつもの軽口を少し抑える形で、タブレットを探すムツキ。
ジュディス「探し物か?育ちは違えど同じ地球人同士…困った時はお互い様だ、私も手伝おう!」
ジュディスは躊躇いなく、手伝おうとする。
ムツキ「いやー、大丈夫ですって…」
断ろうとした瞬間、開いているタブレットの画面を見て青ざめるムツキ。
タブレットの画面にはレポートと期されていた。
“Leica”は初めから「瀬戸杏奈」の位置を知っていて、ラボに来させるようにわざと誘導した=Leicaには自我がある。
そして「瀬戸杏奈」の父は、ゲノム研究所所長・Dr.トクシークの妻と息子を金目的で殺めた。
Dr.のその記憶は封印されたが…蘇る危険性もある」
ジュディス「“Leica”に自我…杏奈の父は…」(編集済)
「さあ。今日は何が入っているかな?
当ててみてごらん。」
香ばしい匂いに、随分と長い間忘れかけていた
「美味しいものを食べる喜び」を少しずつ思い出していた杏奈は
自慢げに微笑むDr.トクシークの様子に釣られ、思わず自分も笑顔をみせた。
「なんだろ?…分かった!マンゴーだ。
それともパイナップル?
あっ!甘口のやつリクエストしたから、もしかしたらハチミツかなぁ」
「残念。それらは君の好物だ。
私は君の苦手を克服するためにこうして腕を奮っているからね」
杏奈と一緒に笑顔を見せていたクロエがさっそく促す。
「杏奈ったら、早く食べないと冷めちゃうわよ」
目の前で湯気を立てている、甘口のカレーはどこか懐かしい香りが漂う。
「うん。なんだかあのワケの分かんない失礼な人たちの相手してたら、すっかりお腹空いちゃったよ。いただきまーす」
Dr.のつくるカレーは、何処か懐かしい場所に帰ってきたみたいな優しい味がした。
そして、例の問いかけなんてすっかり忘れ一気にカレーを平らげた杏奈を見てクロエが目を丸くする。
「こんなふうに食欲旺盛な杏奈を見れる日が来るなんて、あの時は思わなかったわ」
Dr.も満足そうに笑いながら言った。
「いい食べっぷりだ。
そうそう、さっきの答えは、セロリだよ」
「えっ?マジで。全然気が付かなかった」
「これで、克服点がまたアップしたな。
君はなかなか優秀だよ」
そう言い残し、デザートにリクエストした
『コンビニとかに売ってる、ちょっと高いアイス』を取りに席を外したDr.の背中を見送りながら、
杏奈は久々にほんのりと汗の滲む感覚を懐かしく思い出す。
「やばい。博士のつくるご飯が美味し過ぎて
あたし、あっとゆう間にデブになっちゃいそう」
「杏奈がどんどんデブになってくれたら、私もちょっとだけ嬉しいわね」
クロエも悪戯っぽく微笑む。
かつて地を這うような毎日を生きていた頃の記憶。
それはいつからなのか、未だに上手く線引きが出来ない。
あの頃は、腐っているものとそうでないものの区別すら付かなかった。
何でもいいから、とにかく腹を満たして命を繋ぐ。
ここだけの話、ティッシュペーパーにお醤油やマヨネーズを染み込ませた奴をティッシュごと飲み込んだりもしていた。
あまりにもお腹が空いていて、ティシュがお米に見えたのか?
バカバカしくてあたしらしい。
あたし、きっと死にたかったんだろうな。
てかそんなことで死んだらあたしらしいな、悪くないじゃん?なんて思ってた。
何故か幸か不幸かよくわかんないけど、こうして生きちゃってるみたいだけどさ。
これって幸せなのかな?
よくわかんない。
だけど、博士の家族は羨ましいなって思う。
だって毎日こんな美味しいご飯が食べられるんだもん。
あたたかい食卓を囲む、Dr.とその家族を思いながら杏奈は少しだけ切ない気持ちになっていた。
それにしてもさっきのあの男だよ。
嘘くさい笑顔と軽薄なリアクション。
隙のないメイクと香水も趣味が悪過ぎ。
マジで不愉快すぎな奴。
嫌いなタイプ!
思い出すだけでムカついて来る。
しかし、ここって不思議な場所だな。
封印してきた色んな事をひっくり返していく。
全部受け止めていたらキリがないだろう。
疲れるよ。
そうだ。
こんどジュディスに逢ったら、ちょっとだけ訊いてみようかな。
あたしが今まで受け流してきた、色んな事を知っているらしい
“L e i c a” のこと…
普段は明るくハイテンションなクロエの、何時に無く居た堪れない様子を思い出し、
杏奈はまた「大人を困らせちゃったかな」って思う。
大丈夫だよクロエ。
あたし、始めから誰にも期待なんかしてないから。
あんな質問しちゃった、あたしが多分悪かったんだ。
だけど、みんながあたしを助けてくれた事はきっと、ずっと忘れない。
期待はしてない。
だけど感謝はしてる。
だって大人っていつもそうだったもん。
持ち上げて、持ち上げて、安心させて気分良くさせた所でいつも叩き落とすんだ。
毎回このパターン。いい加減気付くよ。
あの時のオバサンが言ってた通りの
「お子ちゃま」な杏奈だって、流石にね。
クロエは「ごめんなさいね」
なんて言っていた。
きっとクロエにはクロエなりの事情があったんだろう。
謝る必要なんてない。
地上にまた放り出されたら?その時はその時だ。