そんな光景を見ても、もう驚かなくなった。
彼らには彼らの暮らしが、地下で展開されているのだろう。
雨風を凌ぐ屋根を求め、地下に暮らしの拠点を移した人々。
杏奈「あたしね、小さい頃は魔女になるのが夢だったんだ。」
ヒロインの少女が魔女になる為に、見知らぬ街で修行をする物語。
杏奈の母が大好きだった映画。
杏奈はこの物語のヒロインに憧れて、自分も黒猫をパートナーに迎えたいなと思っていた。
「ねえねえママ、あんなもジジちゃんがほしい」
しかし何故か母は黒猫ではなく、テディを作った。
何故黒猫じゃなくてテディだったのかな。
杏奈の望みは何でも叶えてくれた母だったけれど、これだけは未だに理解不能だ。
杏奈「あんたは本当は、黒猫になる予定だったんだよ」
いつしか、あの映画のヒロインの少女の年齢は過ぎ、魔女になる夢も遠のいてしまった。
もしかしたら杏奈を魔女になる夢から解放する為にテディは杏奈の元にやってきたのかも知れない。
いつの間にか、そんなふうに理解するようになっていた。
気付けば杏奈も、季節の変化を全く感じなくなっていた。
真夏日でも汗をかくと言う感覚を忘れてから一体どのくらい経ったのだろう。
身体をすっぽりと覆う大きなパーカーのフードを深々と被り、顔を覆い尽くす大きなマスクで気配を消す。
遠目から見たらたまに中学生に間違えられてしまう事もある杏奈にとって、自分をカモフラージュする為の防御策としてはこれが精一杯だ。
ダークネス達とはたまに地上ですれ違う事もあったが、彼らには生身の人間らしい生気は全くなく酸素を吐き出しているのかすら危い。
杏奈は彼らの気配を感じる度に息を潜め、足音を立てずに一定の距離をおいた。
彼らは振り返った瞬間には必ず姿を消しており、その足跡を追跡する事はできない。
「もしかしたら、あたしが幻覚を見ていただけかも」
アイツによく似た面影を、無意識のうちに探してしまう事などとっくに封印したはずなのに。
荒廃した街の裏通りを抜けた、杏奈達。
杏奈「テディ、確かこの辺だよね?あの音がしたのって…」
大きな音があったと思われる場所には公園があった。
だがその公園には大柄と細身の防護服2人組、タブレットなどの電子機材、今まで見たこともない大型車?があった。
杏奈「えーと…これこそ本物の幻覚だよね…」
心の中でそう呟きながら、公園から離れようとする杏奈だったが、細身の防護服に気づかれる。
幻覚じゃない…思わず恐怖から走る杏奈、だが杏奈が追われることはなかった。
軽く、腕を引っ張られる形で追うのを止められた、細身の防護服。
?「あの~博士、私は女同士としてまず挨拶をしたかったのに、何で止めるんですか?」
細身の方が、もう1人の方に話かける。
博士「今、彼女はパニックになっている…この姿では話し合っても無駄だ。」
博士と呼ばれる大柄な人物は、そういってタブレットの方に向かい、操作を始める。
?「でも私は色々と気になりますけどね~あの娘の若さとか?」
博士「すまない、少し静かにしてくれないか…通信の邪魔になる。」
?「はい…でも本当にいたんですね、地球にダークネス以外の数少ない人間である…瀬戸杏奈って。」
杏奈と細身の助手の女性のやり取りを横目で見ながら、
博士と呼ばれる、大柄な防護服を纏った男がタブレットを操作する手を一旦止めて静かに口を開く。
「我々は君の敵ではない。
君をどうこうしようなんて思っていないよ。
まあ…信用してくれなんて、この状況では無理もあるまい」
そう溜息混じりに言い、杏奈に向かい目線を見据えた。
その時に杏奈は、あの日杏奈に母の病気を告げた時の医師との遣り取り、そして病室を包むひんやりとした空気を思い出し居た堪れなくなる。
「今すぐどうこう、と言う訳じゃないんだよ。
ただ…」
まだ年端も行かない杏奈を前に、言葉を濁した医師。
大人っていつもこうなんだ。
正直、今の杏奈には怖いものなんかない。
私が貴方達を恐れている?
私は貴方達もダークネスも怖くない。
ただ、もうこうして生きていく事が面倒になる時がある。(編集済)
博士「エネルギー切れか…クロエ、彼女を施設に運ぼう。」
助手ことクロエもそれに同意し、2人で杏奈を運ぶ形で、大型車の方に向かった。
大型車は、地下の移住スペースに繋がっていた。
移住スペースに移動後、杏奈を施設内のベッドに運ぶ2人。
博士「地球に出た際の影響は無いか…クロエ、瀬戸杏奈の様子は?」
クロエ「今は落ち着いていますが、まさかナイフとは…ジョークも言える余裕は無いですね。」
クロエはため息をつきながらも杏奈の状態を確認し、2人は防護服を脱ぐ為に自室へと向かった。
クロエ「博士、あの娘が持っていた荷物の薬とぬいぐるみは、もう少し調べた方が良いですよね?」
金髪の細身の女性ことクロエは、自室内のモニターで別室にいる白髪の中年男性に問いだした。
博士「お前も気になるのか、彼女がいつからあれを飲んでいたのか…そしてぬいぐるみに関しても。」
いくら懸命に踠いても、全く先に進むことが出来ない。
水の中に沈められ、重たい衣類を着せられて泳がされているような感覚だった。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
呼吸を手繰り寄せるように少しずつ水面に向かって這いあがり、ようやく水から上がる事が出来たような感覚だ。
目覚めた杏奈は、真っ白な部屋の中にいた。
杏奈の痩せっぽちで小さな身体の倍以上はありそうな細長いベッドに寝かされ、手足は緩く拘束されている。
腕には点滴が刺されているのだろうか?
そのチューブは果てしなく伸びる線路のように何処かに繋がれていて、杏奈の目線からは先を確認する事が出来ない。
身体が酷く疲れている事だけは、はっきりと分かった。
軽い絶望感に襲われる。
さらに目を見開くと、杏奈を囲むように配置されたモニターの鈍い光が差し込んで来る。
そのモニターから、ゆっくりと人の声が杏奈に向かって語りかけた。
「驚かせてしまってごめんなさいね、私の姿が見えるかしら?」
杏奈は呆気に取られたまま
「はい」と応える。
「ゲノム研究所助手の、クロエ・ノヴァクです。貴女の名前と年齢を訊いてもいいかしら」
あの日、防護服のガスマスク越しに聴いた聞き覚えのある女性の声に記憶を呼び戻しつつ
「不躾だな。何様なんだ。」
…と、軽く胸の中で舌打ちしながら杏奈は応える。
「瀬戸杏奈、18歳です」
「ありがとう。
瀬戸杏奈さんで間違いは無いわね。
もう少しだけ、其処に居てもらってもいいかしら」
こんなとこ、私だって居たくないよ。
だけどこんな状態で拘束されたら、もはや逃げようが無いじゃないか。
無理なのを分かってて訊くなよな。
杏奈は苦笑したくなる気持ちを抑え答える。
「はい。」
毎朝、気怠い空気の中で部屋中のモニターがONになり杏奈は目を覚ます。
「杏奈、昨日は久しぶりに良く眠れていたようね。
食事も大分摂れるようになって来たみたいで良かったわ」
朝の点呼の時間だ。
モニターを通したクロエの呼びかけには、ガスマスク越しのエフェクトもなく彼女の表情が窺える分、少しだけだがニュートラルな感覚を覚えるようになって来ていた。
かと言って、別にあんた達のことを信頼してる訳じゃないけど。
それから、ここに運び込まれた時から気になっている。
杏奈の小さな住処の一部と化していたノースフェイスのあの鞄がずっと手元にない。
ファスナーのついた内ポケットの中にはテディも居た筈だ。
「そう言えば私の荷物は何処に行ったの?
あの中には大切なものが少しだけ入っているから返して欲しい」
「大丈夫です。
貴女のプライバシーを侵害するような措置は考えていないわ。
だけど、まだ18歳の貴女があんなサバイバルナイフを所持していること
またあのナイフをどうやって入手したのか。
それから…あと、幾つか貴女に聞きたいことがあります。
それらは貴女の個人情報として、当方でも慎重な判断の上大切に扱います。
それまでは、こちらで厳重な保管の上預からせて貰います。」
「所有者である、私の許可なく私の所持品を調べる事はプライバシーの侵害にならないのかしら。
言ってる事が矛盾してる」
「今の貴女はまだ、冷静な判断が出来る状態にはありません。
なので、それまでの間暫くこちらで預からせて貰っているの。
これは杏奈、貴女の身の安全を保障する為に必要な事なのよ。
理解してくれたら嬉しいわ」
ふーん…成る程ね。
あのナイフで私がジサツを図る事をこの人達は恐れてるのか。
まあ大人が考えそうな事だ。
仕方あるまい。
もう暫くの間だけ、無力で従順な少女のふりをしておいてあげる。
「分かったわ。
必ず返してくれる事を約束してくれるなら」
「大丈夫。約束するわ」
モニターの向こうのクロエは、親愛の情を意識した微笑みを杏奈に向けながら頷いた。
(編集済)
クロエ「では杏奈、今日もあの質問をしていい?」
その問いに杏奈は、心の中で今日もそれかと心の中で苛立ちながら、微笑んで頷いた。
クロエ「良かった。
では…ねぇ~博士の作る朝ご飯、今日は和食・洋食のどちらがいい?
和食なら~土鍋で炊いたブランド米、魚の塩焼き、野菜の煮びたし、根菜の味噌汁、漬物。
で洋食なら~焼きたてパン、ベーコン、野菜サラダ、野菜スープ、温泉卵orスクランブルエッグ。
飲み物は任せるけど、どちらも味は保証済みよ~」
杏奈「お任せします…」
クロエ「そう…分かったわ。じゃあ昨日和食だったから、今日は洋食ということで。
あと~今日もちゃんと食べるか心配だから、モニター越しという形で一緒に食べましょう。」
慣れない…クロエの唐突なハイテンションには、いつも疲れと同時に苛立ってしまう。
運ばれる料理は正直美味しいけど、博士の手作りって…あと食料はどこから集めたんだろう?
色々と混乱しつつも、今の杏奈にはこの状況を受け入れるしかなかった。
封印していた記憶を戻す。
杏奈は、14歳の時に母を亡くし天涯孤独になった。
父は生まれた時から居ない。
その事について、杏奈は母に問うた事はなかった。
また、杏奈自身がそれを不思議に思った事もない。
理由は簡単だ。
最初から父が居ない事が杏奈にとって当たり前だったからだ。
当たり前の事に今更疑問など持ちようがなかった。
根無草。
これは杏奈の母の人生そのものでもあったように思う。
杏奈の母は、他の子供たちのママとは少し違っていた。
杏奈が物心ついた頃から、母は様々な仕事をしていた。
大きな基地のある街で暮らしていた頃、母は小さなステージで歌を歌っていた。
街から街へ。
ある時は
「今日は壁に絵を描くから、迎えに行くのが遅くなっちゃうかも」
壁に絵を描く?
そうなんだ。
わかった、待ってる。
1人、2人とみんなママが迎えに来て杏奈だけひとり残される。
誰も居なくなった部屋のピアノの鍵盤と戯れながら母を待った。
だけど、そんな
「他のコのママとはちょっと違う、風変わりな人」
である母を少しだけ自慢に思っていた。
私ってちょっと変わってる子供だったのかな。
普通は寂しがるよね。
私、気付いた頃から他人には期待なんてしてなかったから受け流してた。
そんな母が、ある日突然病に倒れた。
心臓がスポンジみたいになってしまう病気だった。
生まれつきだったのかも知れないってさ。
母は人工の心臓を埋め込まれたけど、3ヶ月も経たずに亡くなった。
色んな事言われたなあ。
可哀想とかさ、何かあったら言ってねとかさ。
じゃあなんかあったら助けてくれるのか。
みんな、私を見て少しだけ優しくなったり
少しだけ立派な人の気分を味わい、誇らしげだった。
色んな人が色んな事を言い、そしてすれ違っていった。
今頃はみんな、ダークネスの街の何処かに居るのだろうか?
誰もいない世界でひとりぼっち。
まあ、こんな事もあるよね。
私はこれ以上誰かに追跡されたくなくて、
自分のラベルをひたすら剥がし続けた。
私がここにいる意味なんか何もない。
私の存在が世界を救うかも知れない?
そんなの知らないよ。
世界なんか救われなくたって、最初から全てが終わってるじゃないか。
あれ?
なんの話だっけ。
ふと我に返った時に
クロエの言葉の断片が浮かびあがった。
「杏奈。よく聞いて?
まず私達が知りたいのは、貴女のゲノムの記憶なの」