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戦国時代に関することを話しましょう。
戦国時代に関することを話しましょう。_レス1の画像_0
家康の家臣達は、かなり問題があったそうです。(編集済)
家康の話も好き 詳しい人来るといいな♪ 語ってけろ
家康に関しては、よく分からないことが結構あるかもしれません。 三方ヶ原の戦いで、家康が城を出て戦った理由 信康を自刃させた理由 石川数正らが秀吉に帰順した理由 家康が秀忠のことを、どのように思っていたのか? 他にも分からないことが多いかもしれません。(編集済)
家康は6歳で織田氏の人質に、8歳から11年間今川氏の人質となっていました。 ただ、今川氏の人質時代の待遇は悪くなかったそうです。 https://history-wisdom.net/ieyasu-child/
天下統一後の家康の元に身を寄せた今川氏真が、何かにつけては家康のところに遊びにいってうざがられてた話好き 今川氏、ほんと憎めないなw
家康と氏真の仲は良かったそうですね。 戦国武将としては凡庸だったかもしれませんが、どこか憎めないところがあったかもしれませんね。 https://nihonshimuseum.com/imagawa-ujizane/(編集済)
今川義元が桶狭間の戦いで討死後、家康も切腹を覚悟するほどの窮地に追い込まれたそうです。 この危機は、かろうじて逃れました。 その後、どさくさに紛れて岡崎城を今川氏から奪い取りました。 これ以降、急速に衰えた今川氏を見限り、信長と清州同盟を結びました。 https://rekishiru.site/archives/13533
武将としてはいまいちで家も潰してしまったけど、夫婦仲良く、2人で70代後半まで生きた今川氏真は、今の価値観でいったらかなりの勝ち組だと思う
まあ、義元亡き後の状況も酷かったので、全てが氏真のせいではないと思っています。 凡庸であっても、穏やかに暮らせたことは参考になるかもしれませんね。
信長との同盟後、家康は今川氏との抗争に勝ち、三河を統一しました。
家康は、武田信玄とも同盟を結びました。 そして、今川氏の領土の遠江を奪おうとしました。 ところが、武田氏の家臣が遠江を侵略しようとしました。 この件で、武田氏との関係が険悪なものとなりました。 それでも、家康は氏真との戦いに勝ち、遠江を手に入れました。 その後、家康は氏真と和睦して、北条氏康の協力を得て武田軍を退けました。
家康は信長と同盟を結んでいたので、姉川の戦いに参戦しました。 家康は榊原康政に命じて、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきった側面を攻めました。 これが功を奏して、浅井・朝倉連合軍に勝利しました。
1572年10月に、武田信玄が家康の領土に侵攻しました。 武田軍は、浜松城を素通りして三河国へ進軍しました。 この時、なぜか家康は浜松城で籠城せずに打って出て、武田軍と戦って惨敗しました。 信玄の謀略で、家臣が寝返ったために籠城できなかったという説があるそうです。
その後、三河の野田城が落城するなど、家康の苦悩が続きました。 ところが、信玄が亡くなったため、武田軍は撤退しました。 これを知った家康は、野田城の奪還に成功しました。
これを知った家康は、野田城の奪還に成功しました。
これは、これを知った家康は、長篠城の奪還に成功しました。に訂正します。
信玄の死後、家康は勝頼と対立しました。 勝頼も、家康を苦しめました。 信玄並みの策士だったかもしれません。(編集済)
そんな勝頼も、長篠の戦い以降、急速に勢力が衰えました。 その後、家康は三河の実権を完全に握り、重要拠点も次々と確保したため、 勝頼を圧倒する勢力となりました。
ところが、この頃から家康は信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場となりました。
勝頼は、上杉謙信の後継者争いに参加して、後北条氏出身の上杉景虎を敗死させました。 このため、武田氏と北条氏の同盟が破綻しました。 そして、北条氏は家康と同盟を結びました。
そして、個人的には最大の謎である信康と築山殿が死に追い込まれる事件が起こりました。 信康と築山殿が武田氏と内通していたというのも、どこまで本当のことなのかは不明です。
築山殿って実際、どんな感じだったんでしょうね。来年の大河では、有村架純ちゃんが演じますよね。家康とは不仲で嫁いびりをした悪妻のように言われることもありますけど。 信康は聡明だったようなので、彼が生き残れていたらまた歴史も変わってたでしょうな
築山殿が悪妻というのも、三河物語という家康にとって都合が良いように書かれたものの記載です。 築山殿が悪妻というのは眉唾だと思います。 それどころか、信長と徳姫も濡れ衣の可能性があります。 信康が生きていたら、どうなっていたのかが気になりますね。(編集済)
なるほど。歴史はいつも勝者が作りますからね〜
己の都合が良いように取り繕おうとしたのは、どこでもやっていることでしょう。 ただ、後世ではボロを出すのも常ですが。(編集済)
後北条氏との対立も抱えることとなった勝頼は、信長との和睦を模索していました。 しかし、これを信長は黙殺し、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回しました。 これ以降、勝頼の威厳は完全に失墜しました。
その後、信長と家康が共同で武田領を侵略しました。 織田軍は信濃方面から、徳川軍も駿河方面から侵攻しました。 その結果、武田氏は滅亡しました。
そして、家康は駿河国を与えられました。 三河・遠江・駿河を所有する一大勢力となりました。(編集済)
家康が安土城を訪れた際に、秀吉の援軍要請があったため、 家康は、帰国後に軍勢を整えて、西国へ出陣する予定でした。 ところが、本能寺の変が起こりました。
本能寺の変の影響で、家康は殉死を強いられるほどの窮地に追い込まれました。 それでも、決死の覚悟で三河へ戻ろうとしました。 特に、伊賀を越えるのが難儀だったそうです。 それでも、何とか家康は三河に戻ることができました。(編集済)
何とか家康は三河へ帰った後で、兵を率いて上洛しようとしましたが、 鳴海で秀吉が光秀を討ったという知らせを聞いて引き返しました。(編集済)
秀吉が台頭した後に、家康は秀吉と対立していた織田信雄と手を結びました。 家康と秀吉の対決は、避けられないものとなりました。(編集済)
信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、 家康は、尾張国へ出兵し信雄と合流しました。 当初、両勢は北伊勢方面に出兵していましたが、 徳川家臣の酒井忠次が、秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、 家康は、尾張の小牧山に着陣しました。(編集済)
秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、 森長可と池田恒興らが三河国に出兵しました。 そして、長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退しました。
それ以降、全面衝突のないまま推移し、家康は北条氏や長宗我部氏らの諸大名に呼びかけ、 秀吉も上杉氏や毛利氏、常陸の佐竹氏らに呼びかけ、外交戦の様相を呈しました。
その後、秀吉と家康・信雄は和睦し、 講和条件として、家康の次男・於義丸(おぎまる)(結城秀康)を秀吉の養子にすることとなりました。
講和後、雑賀衆や長宗我部元親、佐々成政ら、 小牧・長久手の戦いにおいて家康に迎合した諸勢力は秀吉に服属しました。 そして、秀吉は関白に補任され、豊臣政権を確立しました。
水戸黄門って実在したの?
実在したよ。水戸藩藩主、水戸光圀公の別名。 助さん格さん連れて全国旅しながら悪党を成敗してた水戸黄門のストーリーは創作の部分がほとんどだけど
一方、家康は沼田を領有していた真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗したため、 沼田の攻略に苦戦していました。 結局、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵しました。
しかも、甲斐・信濃を含めた5か国の家康の領土で、地震や大雨に見舞われました。 北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった状況で、この惨事となりました。 豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることとなりました。