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三国志について語りましょう。
三国志について語りましょう。_レス1の画像_0
諸葛亮が劉備に仕えた理由を考察する動画です。
新解釈三国志とレッドブロンクスの知識しかありません
三国志演義では諸葛亮の咬ませ犬扱いの曹真ですが、史実では諸葛亮を翻弄しています。(編集済)
私は、どちらも知りません😅(編集済)
の動画は、諸葛亮が好きな方にとってはガッカリする内容かもしれません。 それでも、三国志を楽しみたいのなら必見です。(編集済)
ちなみに、諸葛亮と司馬懿の対決は、第四次と第五次の北伐だけです。
ただ、第一次北伐の時に、司馬懿は孟達を討ち取りましたが。
北伐の唯一の成果を考察する動画です。
個人的には、諸葛亮より司馬懿のほうが格上と思っています。 ただ、第四次北伐の時の司馬懿には違和感を覚えます。 張郃を無理やり追撃させて、張郃を戦死させたからです。
もっとも、諸葛亮が無能とは思いません。 北伐の難易度が物凄く高かったからです。 そもそも、荊州を奪われた時点で、天下三分の計が破綻しました。 その影響で、蜀が魏を攻めようとするだけでも大変でした。 険しい山道を通りながら、兵糧を運搬するだけでも至難の業。 しかも、蜀の国力が魏の1/6程度となりましたので。(編集済)
そもそも、北伐をする意味とは何でしょう? 北伐をするには費用が掛かります。 しかも、難易度が非常に高い。 ですので、費禕などは北伐に消極的でした。 もっとも、北伐をしなければ、魏との差が一層大きくなるため、 それを食い止めようとした側面があったかもしれません。 また、魏と戦わなければ、蜀の存在意義が問われた可能性もあったかもしれません。(編集済)
北伐は無謀な戦いだけど仕方無くですかね 劉備の悲願や蜀の存続意義は私も思います 
北伐の評価は難しいです。 蜀の住民は、国力を高めるための重税で苦しんでいたそうですし。 だからと言って、やらないのも問題があったかもしれませんし。
やらないよりは、ですよね。きっと。 時間がもっとあったとしてもやはり結果は変わらなかったでしょうか?
やらないという選択肢を取れなかったかもしれませんね。 時間があっても変わらなかったと思います。 むしろ、魏との国力差が開いていたと思います。 魏へ逃亡した蜀や呉の住民が多かったそうですし。
私も変わらなかったかなと思います、抱えたものが大きすぎましたよね 1人で。最後まで漢の復興の為にやらざるを得なかったのですよね。
諸葛亮の最期は、過労死みたいな感じでしたし。 これだけ不利な状況で、最弱国の蜀が滅びなかっただけでも凄いことかもしれません。 それだけでも、北伐の意味があったかもしれませんね。
蜀は不運というか成り上がりも遅かったですし それなのに滅びなかったのは凄いですよね、人材には恵まれていたからでしょうが。劉禅は…ですけども。
やはり、荊州を失ったことが最大の誤算だったと思います。 もっとも、荊州を維持するのも至難の業でしたが。
諸葛亮亡き後に蒋琬が宰相になった時は、大規模な北伐は行いませんでした。 そのため、諸葛亮の北伐で疲弊した国力が回復しました。 ただ、蒋琬は北伐に消極的な立場ではありませんでした。 漢水を船を使って下って、上庸などを攻めようとしました。 この方法だと、兵糧の輸送が容易になります。 しかも、すばやく上庸などを攻略できる利点があります。 そして、上庸などを拠点とすることで、新たな北伐の経路が得られます。 ただ、蒋琬が病気になったことと、費禕と姜維などが反対したため、この計画は頓挫しました。 反対理由は、失敗した時に引き返すことが困難だからです。 劉備が夷陵の戦いで惨敗したことも一因なのでしょう。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/09/09/%e5%a7%9c%e7%b6%ad-3/(編集済)
費禕が宰相になった時も、大規模な北伐を行いませんでした。 費禕は蒋琬とは異なり、北伐には消極的でした。 単に蜀を存続し続けたいのなら、費禕の方針が最善かもしれません。 ただ、費禕は暗殺されました。
費禕が亡き後は、姜維が軍権を握りました。 姜維は、北伐に積極的でした。 局地的には、諸葛亮の北伐よりも成果があったかもしれません。 ところが、第四次北伐における段谷の戦いで大敗しました。 この戦いの被害は、非常に大きなものでした。 さらに、6度の北伐によって、蜀の国力が疲弊しました。 その結果、姜維の立場が微妙なものとなりました。
そうこうしている中、魏が蜀に攻め込みました。 蜀は、敵の侵略に対しては強固な国でした。 ところが、
の影響で蜀の政治担当と軍事担当の間に不穏な空気が流れていました。 このため、意思疎通ができませんでした。 しかも、魏の歴代最強武将と言っても過言ではない鄧艾が参戦していました。 鄧艾は険しい山谷を越えて、江油に辿り着くという離れ業を行いました。 その後、諸葛瞻らを打ち破り、成都も目前となりました。 蜀軍の主力は剣閣に集中していたので、劉禅は降伏しました。 意思疎通ができていたら、魏の侵攻を防げた可能性もあったと思います。
蜀の滅亡後、姜維は魏の鍾会に接近しました。 鍾会は野心家で、蜀を乗っ取って独立しようとしました。 鍾会の策略で、鄧艾を失脚させることに成功しました。 ところが、鍾会の計画が外部に漏れたため、鍾会と姜維は殺されました。 これを、成都大騒擾と言います。 姜維が鍾会に接近したのは、蜀を復活させるためという説があるそうです。
姜維も鍾会も焦ったね頭いいのになんでそこは慎重に行かなかったのか不思議だけど。
鍾会は策士ではありましたが、軍を率いた経験がなく、人望もありませんでした。 姜維も、捕らえた魏軍の将を殺さずに生かしてしまう進言をしてしまいました。 そんな鍾会と姜維では、慎重に事を運ぶことができなかったからだと思います。(編集済)
蜀に、羅憲という人がいました。 羅憲は、蜀滅亡後のどさくさに紛れて侵略してきた呉から永安を守った名将です。 羅憲は、呉の侵略に対して戦わなくても構わない立場でした。 しかし、羅憲は蜀との同盟を反故にした呉に憤りを覚えていました。 そのため、わずかな兵力でありながら、呉と戦いました。 そして、呉の猛攻に堪えて、呉を撤退させました。(編集済)
魏延は直接長安を攻める提案をしましたが、諸葛亮に却下されました。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/08/23/%e9%ad%8f%e5%bb%b6%e3%81%ae%e9%95%b7%e5%ae%89%e6%94%bb%e3%82%81/
諸葛亮の北伐の中では、第一次が最もマシだったと思われます。 孟達と馬謖がヘマをしなければ、どうなっていたのかが気になります。
蜀は最弱国でしたが、荊州を維持できたらと思うことがあります。 荊州を維持できていたら、北伐の難易度が幾分か下がると思うからです。 確かに、関羽は不覚を取りました。 ただ、荊州を維持するのは至難の業でした。 そもそも、荊州は呉から借りていた領土だったからです。 呉と友好関係を維持しつつ、荊州も維持するなんて無茶な話でしょう。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/11/28/%e8%8d%8a%e5%b7%9e%e3%81%ae%e5%80%9f%e3%82%8a%e3%83%91%e3%82%af/(編集済)
関羽の死が原因で、劉備が呉を攻めようとしました。 趙雲は攻めるなら魏であると反対しましたが、諸葛亮は表立って反対しませんでした。 諸葛亮が表立って反対しなかった理由を知りたいです。(編集済)
劉備は呉に攻め込みましたが、夷陵の戦いで陸遜に返り討ちにされました。 白眉で知られる馬良などが戦死し、漢中攻略の立案者の黄権も魏に投降しました。 斬首・投降者も数万という途轍もない被害でした。(編集済)
夷陵の戦いの勢いに乗じて、このまま呉が蜀を滅ぼそうとしても不思議ではありませんでした。 しかし、呉は魏の侵攻を恐れて、蜀に攻め込みませんでした。 このことは、蜀にとって不幸中の幸いでした。 諸葛亮は劉備に後を託されましたが、荊州がなく、国力も疲弊し、呉とも不仲という最悪な状況でした。 この状況から、曲がりなりにも北伐ができるまでになっただけでも驚愕することかもしれません。
ちなみに、呉軍が撤退したのは正しい判断でした。 魏が、三方面から呉へ攻め込んだからです。 この侵略を、呉は防ぐことに成功しました。
劉禅を暗愚な君主と思っている人が多いかもしれませんが、そこまで愚かではなかったそうです。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/12/26/%e5%8a%89%e7%a6%85%e8%83%bd%e5%8b%95%e7%9a%84/
三国志演義では目立つ趙雲ですが、正史には大して記述されていないそうです。 関羽などと比べると、活躍する機会が少なく、階級も低かったそうです。 ただ、趙雲が有能だったことは確かです。 https://hajimete-sangokushi.com/2020/03/21/choun-chouho/
張飛を脳筋と思っている人もいるかもしれませんが、意外と頭が良かったかもしれません。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/08/16/%e5%bc%b5%e9%a3%9b%e3%81%ae%e9%ad%85%e5%8a%9b/
司馬昭が実権を握っていた時に、魏の皇帝の曹髦を殺してしまいました。 これは、致命的な汚点となりかねませんでした。 そこで司馬昭と賈充は、命令に従った成済に全ての罪を擦り付けて処刑しました。 よくある話かもしれませんが、酷い仕打ちでした。(編集済)
司馬昭が蜀を攻めたのは、
の影響もあったそうです。 司馬昭の名誉を挽回するのが目的でした。 ただ、司馬昭は漢中を獲る予定で、蜀を滅ぼす気はなかったそうです。
で劉禅は暗愚ではないと書きましたが、暗愚と思われても仕方がない逸話もあります。 https://hajimete-sangokushi.com/2021/12/08/disappointed-liu-shan/
関羽は、自分と同格以上の人に傲慢な態度を取る欠点がありました。 これが、荊州を失う原因の一つとなりました。 https://hajimete-sangokushi.com/2018/12/05/sonken-2/(編集済)
関羽とは対照的に、張飛は目下の者に傲慢な態度を取りました。 些細なことで、部下を厳罰に処したり処刑したそうです。 このため、張飛は部下に暗殺されました。 劉備は、上奏文が届いたと聞くなり「張飛が死んだ!」と嘆いたそうです。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/11/25/%e5%bc%b5%e9%a3%9b%e3%81%ae%e6%9c%80%e6%9c%9f/(編集済)
魏延は、有能な武将でした。 誰もが漢中の守備は張飛が行うと思っていましたが、劉備は魏延に任せたほどでした。 また、第一次北伐の頃に鄧芝が呉に派遣された時に、 孫権が「蜀で文武に最も長じた者は誰か?」と質問した際に、 鄧芝は「武において第一は魏延、文治は費緯。」と答えたほどでした。(編集済)
ただ、魏延は扱いにくい人でした。 そのせいで、魏延の晩節を汚してしまいました。 諸葛亮亡き後の魏延と蜀軍との方針の違いと、折り合いが悪い楊儀の指示に従いたくないのが原因でした。
で趙雲が活躍する機会が少ない理由と趙雲の地位が低い理由を書き忘れましたが、 それは趙雲が近衛兵だったからです。 魏の許褚も、地位が低かったそうです。(編集済)
実は、諸葛亮が配下となる前に、九品官人法の立案者の陳羣が配下にいました。 もっとも、徐州を奪われてからは、劉備の下を去りましたが。(編集済)
劉備は、馬謖を評価していませんでした。 「馬謖は言葉ばかりで実力が伴っていない人物だ。 くれぐれも彼に重要な任務や仕事を任せてはいけない。」 この発言は、第一次北伐における馬謖の失態を予言したかのようなものとなりました。 https://hajimete-sangokushi.com/2019/03/05/%e9%a6%ac%e8%ac%96%e3%81%a8%e5%8a%89%e5%82%99/(編集済)