八王の乱を語るのなら、賈南風に注目すべきでしょう。
賈南風は、賈充(司馬昭の腰巾着で賈逵の息子)の娘でした。
司馬炎は、賈南風を司馬衷(後の恵帝)の妃にする気がなかったそうです。
しかし、賈充の根回しで司馬衷の妃となりました。
賈南風は、ぱっとしない司馬衷を皇帝にさせる内助の功も行いましたが、それ以上の災いをもたらしました。
https://hajimete-sangokushi.com/2016/11/20/%e8%b3%88%e5%8d%97%e9%a2%a8%ef%bc%88%e3%81%8b%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%b7%e3%81%86%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%a9%e3%82%93%e3%81%aa%e4%ba%ba%ef%bc%9f%e5%8f%b8%e9%a6%ac%e8%a1%b7%e3%81%ae%e5%a6%83/
の
しかし、賈充の根回しで司馬衷の妃となりました。これは、賈充の妻の根回しで司馬衷の妃となりました。に訂正します。 また、司馬炎が賈南風を司馬衷の妃にする気がなかった理由は、下のURLに書いてあります。 https://hajimete-sangokushi.com/2020/12/03/kanapu/
八王には、司馬〇が沢山いて混乱すると思われます。
ただ、司馬乂(がい)に関しては知っておいたほうが良いと思います。
八王の中で唯一の清廉潔白な人だったからです。
https://hajimete-sangokushi.com/2021/05/09/sima-ai/
司馬穎(えい)は南匈奴の左賢王・劉淵に協力を要請し、
五部に分割されていた匈奴の兵力を結集して戦うように命令しました。
この命令は、晋が瓦解する切っ掛けとなってしまいました。
https://hajimete-sangokushi.com/2022/03/07/blunder/(編集済)
司馬越(えつ)が一応八王の乱を制しましたが、それ以降も混沌としました。
劉淵が晋から独立して、漢を建国した影響が大きすぎました。
また、司馬越の独裁権を集中させるために擁立した司馬熾(し)(懐帝)の親族外戚や側近を殺戮したため、
司馬越と懐帝が不仲になったことで、司馬越は洛陽から離れて項城に逃れ、
懐帝が討伐の勅令を発っしたのを知ると憂憤のうちに病死しました。
ここから、さらに混沌とします。
https://hajimete-sangokushi.com/2022/01/11/sima-yue-end-of-war/
正史三国志を執筆した陳寿は、かつて蜀に仕えていました。
そのため、陳寿は蜀を正統な王朝にしたかったのですが、
降伏後は魏と晋に仕えたので、魏を正統な王朝にしてしまいました。
https://hajimete-sangokushi.com/2016/08/19/%e9%99%b3%e5%af%bf%ef%bc%88%e3%81%a1%e3%82%93%e3%81%98%e3%82%85%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%a9%e3%82%93%e3%81%aa%e4%ba%ba%ef%bc%9f%e2%97%8f%e2%97%8f%e3%81%ae%e3%83%ac%e3%83%83%e3%83%86%e3%83%ab/
裴松之(はいしょうし)は、正史三国志に注釈を加えた人でした。
彼の独特な注釈は、三国志演義にも影響したそうです。
https://hajimete-sangokushi.com/2019/06/24/%e8%a3%b4%e6%9d%be%e4%b9%8b%e3%81%a8%e3%81%af/
呉は魏や蜀と比べると、地味な国に思われるかもしれませんが、
血の気が多くて個性的な人が最も多い国かもしれません。
その中でも孫権と張昭の逸話は、その最たるものであり、三国志の中で最も笑えるものでしょうw
https://hajimete-sangokushi.com/2018/10/09/%e5%ad%ab%e6%a8%a9%e5%bc%b5%e6%98%ad/
孫堅は、英雄の資質がある人物でした。
ただ、呉の人特有の血の気の多さのために戦死しました。
ただ、孫堅が早くに亡くなっていなければ、孫策や孫権も早期に表舞台に登場しなかったかもしれません。
https://hajimete-sangokushi.com/2016/03/28/post-11034/(編集済)