な
幸運が続けば、誰でも傲慢になる。イケイケドンドンのときにはすでに下り坂である。
今、自分が腹を立てている不運は「あなたは今すでに下り坂になっていますよ、ブレーキを踏まなければ危ないですよ」というメッセージかもしれない。心当たりがある この程度のつまずきで 学習できてよかった
苦しいときには、人生最後に払う苦しみを今払っていると思えばいい。おかしな事件が起こるときには この心の借金がどうにもならなくなっている時… 死ぬ時にそれを払う人がいる 社会で成功する人間が 時折 おかしな事件を起こす これは自殺を含める うまくいかない方が当然で だからこそ こうやって反省する機会が設けられる 俺はこうした小さなつまずきに この反省をできずに、社会的に成功すれば ニュースで流れてくるような 奇妙な事件でも起こしていたのかもしれない
人間は神とともにあって幸福であったということもたしかだろう。しかし、人間が内からでなく外から価値づけられ意義づけられることは、人間の怠惰な幸福への願いのあらわれにしかすぎない。
人間が自ら悪戦苦闘し生きがいある人生を築く努力を惜しんで、努力なくして幸福を勝ち得るために考えだし、創りだしたのが神である。神は人間の身勝手な弱々しい気持ちのあらわれにしかすぎない。
人類の歴史において、いずれはこの神によるごまかしの生き方があばかれるときがこなければならなかった。
今や人間は自らの存在意義を、自らの生きている価値を、自らの生の目的を、自らの内面の安息を、自ら自身によって勝ち得なければならない時代がはじまった。
それが「私には私の人生がある」である。藍染隊長…?
してもいい競争と、してはいけない競争がある。
してもいい競争は、自分の過去との比較である。自分は昔に比べて「こうなった」というような比較は望ましい。今日は昨日よりも部屋を綺麗にしようというような比較である。
してはいけない競争は、神経症的競争である。二人の部下を操るための競争、嘆いている部下を発奮させるときの競争、いろいろとある。人を動かすために競争を利用することは有効かもしれない。しかし一時はいいけれども、長く利用すると憎しみが出る。
子どもでも長く競争にさらすと意地悪になりやすい。人をやっかむようになる。
キツネとウサギが競争している。キツネがドングリをもってきた。ウサギもドングリをもってきた。そうしたら、ウサギに「もっとドングリをもってこい」といってはいけない。そういう競争をさせてはいけない。
「君はキツネと違うんだから、野原に行って野いちごをもってらっしゃい」という。人が発奮するのは、基本的には「自分が認められたとき」である。このことを忘れてはならない。
鷲は鷲であり、モグラはモグラである。 鷲は飛ばなければならない。鷲は飛ぶことで自分の持ち味が出せる。人に認められようとして脱線してはならない。(編集済)
私も人並みに、途中いろんな職業につくことを考えたし、努力もした。しかし結局、今の職業以外に落ち着くということが私の性格からして考えられなかったのである。
はじめからこのような職業について生きていかれるという保証があったわけではない。結局書くことと考えることから離れられなかったのである。そのために人以上に苦労もあったが、いったん生き方が決まれば、人よりも仕事はしやすかった。俺も この能力がなければ 普通にみんなと遊べただろうと思う しかし どうしても 一人でこのように考える必要がある そうしないとダメだった 何度か試みたが ウルトラマンのように、期限付きでしか無理だった 期限が終われば、いつも通りこうなる
「猿の水練、魚の木登り」で燃え尽きる。
ではなぜ猿は泳ごうとしたのか。
それは猿に向かって、「なぜあなたは泳げないの?」といった親や世間の人たちがいたからである。
泳げない猿が「実際の自分」を拒否して、泳げる猿を「理想の自分」として描いたからだろう。
そして猿は泳げない自分を軽蔑した。歪んだ価値観がこの猿を殺したのである。互いに こういうことをするからダメになる 俺自身も 普通の人間として生きるよう 幼い頃から周りに言われ続けてきた 今度は俺が 「どうして 俺のようにできないのだ?」と ギフテッドに合わせようとする これでは 周りと同じ馬鹿だ 俺は俺でいい この辺りに ギフテッドはいない だから 俺はここに一人でそのスタイルをやればいい